Ciatech創業者マルセロ・サトウ インタビュー
Part 1: Ciatechの創業


ブラジル・ベンチャー・キャピタルの起業家インタビューシリーズ。

企業向けのエデュテックで大きく成長し、ブラジルのデジタルビジネス大手、UOLに高いバリュエーションで売却を果たしたCiatechの創業者、マルセロ・サトウ氏のインタビューです。

起業当初のアイディアは成功を収めるまで何度もピボットするものだと言われますが、Ciatechの場合もまさにその代表例です。どのような変遷を経て現在の業態に至ったのか、第一章では創業当初の試行錯誤の様子を語ってくれます。

CiaTech創業者マルセロ・サトウ
CiaTech創業者マルセロ・サトウ

マルセロ・サトウ(Marcelo Sato):
日系ブラジル人としてサンパウロに生まれる。サンパウロ州サンベルナルド・ド・カンポ市のFEI大学電子工学部在学中に時代にアレックス・モレノと出会い、2人で共同創業者としてシアテックを設立。現在は、ブラジルのベンチャーキャピタルのAstella Investimentoのパートナーを務め、革新的なITサービスへの投資を行う。ブルーノ、エミリー、ガブリエルという3人の子供の父親。

 

 

 

シアテック(Ciatech):
シアテックは1996年サンパウロ州サンベルナルド・ド・カンポ市にて創業。創業17年目で外部からの出資を受けずに年商4千万レアル(約14億円)を達成。創業当初はオフラインのサービスからスタートし、ブラジル国内のインターネット市場の興隆とともにオンラインサービスにシフトチェンジ。90年代終わりのインターネットバブル崩壊で多くのインターネット企業が倒産する中、Ciatechは生き残り。2013年、ブラジルの大手インターネット会社UOLがマーケットを上回る金額で買収。

 

独立への道

ブラジルの日系人家庭では、一つの会社で定年まで勤めあげるのが理想とされることが多く、自分の家族も例外ではありませんでした。一般的に「理想的なワークライフバランスのためには勤務時間は一日8時間」などと言われますが、両親は商売をやっていて常に忙しく、自分の面倒は祖父母が見ていたほどでした。こうした環境が私に規律というものが何かを具体的に示してくれていましたし、自分にとって働くことは重労働を意味していました。

将来大企業で働くという家族の期待を背負った私は、実務につながる勉強をするために、高校は1989年にサンベルナルドドカンポ市のラウロゴメス技術学校(ETE)の電子工学コースに入学しました。90年代には自分の周りで起業する人がいるなんて聞いたことがないような時代でした。

この学校で始めてソニーのMSXでプログラミング言語BASICを学んでいた私は、将来IBM、マイクロソフト、インテルなどの大企業で働くことを夢見ていました。

この学校を選んだことは私にとって大正解でした。ETEは他の学校のように厳しい履修コースが定められていなかったことも自分に合っていたし、二、三年目には電子分野の実務に特化した内容だったことも勉強をする上で大変役立ちました。最終学年では、学校がイスラエル政府と提携を結んでいた関係で、最新鋭の機材が導入されましたし、教授陣も実務経験が豊富な先生が多かったため、基礎を学ぶには絶好の環境でした。

大学は、厳しいことで知られるサンパウロ州のサンベルナルド・ド・カンポ市の産業工学(FEI) 電子工学部に入学しました。しかし、高校での環境があまりにも実践的で、理想的な環境だったため、理論重視で、同級生のレベルも差が大きく、更に機材も乏しかった大学の環境を見て、入学早々大学に幻滅してしまいました。もちろん理論は重要ですが、自分では実践に役立てるべく十分な経験が身についていていてそれを深めたいと考えていたからです。

このような環境では自分を成長させるようなチャンスはなかなかないのではと思い、一度は休学も考えたほどでした。二年生になった1993年にIT分野についての知見を深めることを決意しました。4年前にぼんやりと興味を持っていた分野がこのタイミングでキャリアの中心に据えるべく、現実的なものとなったのです。

IT分野の進歩のスピードはものすごいものでしたし、マイクロソフトとアップルがパソコン業界の派遣を握るべく競争が激しくなってきた時期でもありました。この変化の激しい中に自分を置くことに将来性を感じることができたのです。

オペレーティングシステムが専門で、コンサルティング会社のオーナーでもある教授に師事し、プログラミングのスキルを磨きました。この時期のブラジルにはまだまだITやプログラミングについての情報が乏しかったので、かなりの部分を独学で学びました。

その後二年間、専ら開発とプログラミングを専攻し、研修最終年の年には大学のマルチメディア開発の研修生に選ばれました。この研修は、当時米国では既に一般的であった画像や音声のプログラミングの分野で、大学とMacromediaとの提携で実施されたものでした。

この時期は本当に実践的な技術を鍛えることに焦点を当て、日中は大学で研修生として働き、夜はコンサルティング会社の開発者として働く日々が続き、この2年間で本当に多くのことを学びました。

より実践的な環境で学生のうちに実際の起業で就業体験をすることを目的とした大学のプログラムで、大学4年になるとより正式なインターンシップを行うことが必須となっていました。いくつかの企業の選考プロセスに参加しましたが、大企業は変化に対して閉鎖的だと感じており、コンサルティング会社は一時的なプロジェクトをこなすのみでなにかインパクトのあることができないと感じていました。

同じ頃、大学の同級生のアレックス・アウグストが、インターン先のシーメンスを1か月で辞め、キャリアについて同じように悩んでいることを知りました。私の理想はアレックスと同じで、独立したプロフェッショナルとしてのキャリアを築いていくことでした。こうして二人で話をしているうちに二人とも当初考えていたキャリアプランを大きく変えて、一緒に起業しようという話になりました。

自分は技術面に強く、彼は営業面が得意だったので、お互いを補完できる最良のパートナーになれるだろうと確信していました。また、まだ大学卒業直前の時期だったので、起業というリスキーなチャレンジをするには絶好のタイミングだとも考えました。例え起業に失敗しても就職すればよいと考えていたからです。

ついに1996年半ばにCompanhia da Arte(後のCiatech)を立ち上げました。アレックスと私の他に更に二人の同級生が創業パートナーとして加わりました。大学最終学年の最終学期でもあったので、このタイミングで起業して、学業と料率をするのはなかなか大変なことだとは認識していました。私たちの大学はいくつかの科目では非常にディマンディングだったので。そこで我々は企業と学業という一見異なった二つのものを融合する方法を考えました。卒業研究のテーマに関連する仕事を会社の主な柱に据えることにしたのです。

こうして事業の中心をマルチメディアに関連したものに絞りました。当時はマルチメディアはインターネット同様の未成熟な状況だったので、私たちは、販売研修やっ商品研修に使えるプログラムを開発しました。パワーポイントベースの文字ばかりの一方通行のプレゼン資料を、画像・音声・アニメーションを含む、マルチメディアでインタラクティブなプレゼンテーションに変換するソリューションもつくりました。いくつもの企業が社内の社員教育用にも、社外の顧客向けとしても、こうした新たなテクノロジーを採用し始めていたころでもありました。

しかし、実際に事業を起こしたものの、最初の6か月は地元の不動産業や小さなコンサルティング会社等、非常に限定的なクライアントしかない状態でした。営業面で大きな壁となったのは私たちの年齢が若すぎることでクライアントからなかなか信頼してもらえず、商品自体も卒業研究で作ったプログラム以外には殆どない状態だったので、会社を続けるのは困難な状況でした。やがて、後から会社に入った同級生二人が辞め、再び自分とアレックスの二人となった時に、このままでは立ち行かないと思い始めたのでした。

ある日地元の雑誌が私たちについての記事を書いてくれました。大学を出たての若い私たちが起業することは当時では非常に珍しかったのです。そして、その記事を見て、エウクリデス・モレノが私たちにコンタクトをしてきました。エウクリデスは私達よりも20歳近く年上で、企業向けの営業での経験も豊富でした。彼はマルチメディアにはさほど詳しくはなかったのですが、経験のある年上の人間が同席することでクライアントからの信用も得やすくなりミーティングがスムーズに進むようになりました。

こうしてエウクリデスも出資をして経営陣に加わり、会社として次のステージに進むことになりました。

 

最初の大口クライアント

当時の営業活動は紹介によるものが中心でした。途中でやめてしまった創業者の一人の父親はコンサルティング会社を経営しており、ABC地域(サンパウロ市近郊の3都市)を中心に多くの会社を紹介してくれました。また、私たち自身も様々な方法でクライアント候補にアプローチをしていました。

当時、力を入れていたのはマルチメディアの販売研修プログラムだったのですが、なかなか売れずに困っていました。ある日、カンピーナス市に拠点を置くボッシュと話したときに「販売研修プログラムは必要ないんだけど、このブレーキのカタログをなんとかできないか」と持ち掛けられました。当時ボッシュでは、一度作成したブレーキなどの商品カタログは簡単に編集できずに困っていました。何百とある製品のうち、少しでも変更がある場合にはカタログ全てを廃棄し、印刷仕直さなくてはならない状況だったのです。この担当者は修正可能なデジタルベースのカタログを作れないかと持ち掛けてきたのです。

このミーティングの後、アレックスは大喜びで事務所に戻ってきましたが、自分たちがいまだに一回も作ったことがないものを先に約束してきたしまったわけです。しかも200種類を超すブレーキ部品を納めるカタログ。

しかし約束してしまったものは仕方がありません。試行錯誤の末、アップデート可能なマルチメディアCD-ROMカタログを開発しすることができました。ボッシュとしてはもう変更の度にカタログを印刷しなおす必要がなくなったのです。こうしてようやく大きなクライアントとの最初の仕事を成功させることができました。

 

サンパウロへの移転

私たちの会社はテスト期間のようなものはなく、いきなり最初から営業活動をしていました。3人の創業チームで会社の方向性を決めた後は1年間とにかくやれることをやって、うまく行かなければ解散して他のことをやろうと思って活動していました。

ボッシュと仕事ができたことがターニングポイントとなりましたが、ボッシュとの仕事だけでは会社を維持することはできませんでした。幸いなことにその後もう一社大きな仕事が入りました。パジナス・アマレーラスという電話帳を発行する会社が更新しやすい形で電話帳を発行したいと依頼してきたのです。

仕事が増えるのはありがたいことでしたが、より多くのプログラマーを雇う必要がありました。この頃は新しい契約獲得に躍起になっていましたが、一方で、労務管理や租税関連の対応の事務的な作業に取られる時間も増え、本来自分たちがやりたいような仕事ができない状況も生まれていました。

しかし、このような障害がありつつも、会社は成長を続け、設立二周年を迎える1998年半ばには黒字化を達成しました。とはいえ、私もアレックスも実家に住んでいたこともあり生活費はかかっていませんでしたので、正確には黒字化とは言えなかったかもしれませんが。

起業後最初の3年間はサンベルナルド市に事務所を置いていましたが、クライアントの多くはサンパウロ市にいたので、ミーティングや受け渡し等のたびに1時間以上かけてサンパウロまで出向かなくてはなりませんでした。そこで、1999年の年末に費用と時間を節約するため、サンパウロ市のイタインビビ地区に引っ越し、この機会に会社名もCiatechに変えることにしました。この頃には3人の創業チームに3人のエンジニアと1人の事務員を加えた7人のチームになっていました。

偶然にも会社を移転した直後の2000年は、ブラジルでもインターネットバブルが弾け、多くのスタートアップが倒産しましたが、自分たちの会社はCD ROMなどのオフラインサービスが主で、いわゆるインターネットの会社でなかったこともあり、大きな影響は受けずにすみました。

しかし同時にCD-ROMの時代も長くは続かず、今後の成長分野はオンラインサービスにあると考えていました。CD-ROMはカタログを何度も印刷するよりは安いものの、インターネットに比べたらコストのかかるものだったので。私たちは更なる成長を目指して会社の軸足を移そうと考え始めていました。

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